「この10年間は一体何だったんだろうか」――。3月中旬、久しぶりに会った元銀行マンのK氏の呟きが、この原稿を書くきっかけでした。K氏と私の付き合いは7年ほど前から。経済記者として金融の取材を始めたばかりの私と大手銀行の経営企画室に勤務していたK氏。今、その大手銀行は破綻し外資系企業に買収されてK氏は第二の人生を歩み、私は新聞社を退社して政治を志して選挙活動の日々です。
あれから6年。日本は前に進んだのでしょうか。お金が土地や絵画、株式に一気に流れ込んだバブル期を「あれは特別な時代であり、大都市の問題」と語るのは簡単です。しかし、その後の何かが沈殿しているような日本全体の社会、経済、政治を眺めると「バブル自体より、その後に起きた事の方がもっと異常でないか」と痛感します。不良債権の処理という「お金の流れ」だけでなく、個人も、家族も、会社や地域社会といったコミュニティーも、はっきりした行く手を探っている状態が続いています。
「この国には何でもある。しかし、希望だけがない」(村上龍著・「希望の国のエクゾダス」)。必要以上に悲観的になることはないし、周りを見れば暴動が起きたり餓死する方が次々といる訳ではありません。しかし、大人や子供が素直に希望や夢を語れない社会を作ってしまったのは事実です。私たちはどこへ向かうべきなのか。21世紀に輝きを取り戻す処方箋はあるのか、を考えるヒントや道筋が、この数年に起きたこと、また現在起きつつある事の中から見つけ出せるはずです。
政治家志望の私ですが、この国の政治を変えたいと思いを本気になって固め、次回の衆議院選挙に立候補しようと妻に打ち明けたのは金融取材を終えた97年の秋のことです。霞が関や国会を飛び回る中で、体が突き動かされるような衝動を覚えました。政治家を志し、有権者の方々から判断を受けようとする者として、記者の目からみた風景、その後の私の体験から得た思いも含めて、自分の言葉で整理し直し明らかにするとが、公(おおやけ)を目指すものとしての礼儀です。
「第二の敗戦」という言葉が一時流行りました。私たちが生活している日本の社会は誰に敗れた訳でもなく、自分たち自身に敗れたのだと思います。思えば第二次世界大戦に敗れた私たちの先人たちは、精神的にも、物質的にも打ちのめされたなかで、見事に日本の再建を成し遂げました。「負けっぷりも良くなくてはいけない」(吉田茂首相)とした潔いリーダーに限らず、地方で、都会で、事実を受け止め、敗戦を抱きしめながら前を向いて歩いた多くの日本人がいたからです。
2001年4月、国民的人気のある小泉純一郎氏を首相とする内閣が発足しました。小泉氏の公約である「破壊」の公約を本当に実現すれば、とりあえず出身の母体である自民党は崩壊するでしょう。しかし、腐った船になってしまった政権政党の行方、永田町ムラの栄枯盛衰は、私たちの未来にとってどうでもよいことです。
大切なのは、どのように日本の傷を治療し、「たのもしい国」に作り変えるか、という明確なビジョンであり、実行力です。政治の舞台での政策をめぐる競争と緊張感を取り戻すためには、政権交代という道しかないのだろうと確信します。
犯意なき過ちとされた過去10年間の経済失政を振り返りながら、私なりの提言を綴ってゆきたいと思います。
子供たちに美しい国を残すためにも、変わらずに残すためにも変えなくてはいけません。
・ 震災ショック
・ 「そうじゃのう」が崩れた日
・ 昭和金融恐慌の影
・ 経済の血液を取材する
・ 「ギャートルズ」には戻れない
・ なぜ「紙切れ」が信用されるのか
・ インフレは戦争の母
・ 希望を失うとデフレに
・ 滞留するマグマ
1995年1月17日午後、東京・神田にある日本経済新聞経済部の金融取材センター(通称・神田分室)。誰もがテレビから流れる炎と煙に釘付けになっていた。
「行方不明者の数は千人に達した模様」「2千人以上の模様」――。アナウンサーが伝える数字が時間を追うごとに増えてゆく。「どうなっとるんや!」。「取りあえず、お前ら日銀本店で情報集めてこい。残りは待機」。大阪出身のHキャップが叫ぶ。
阪神淡路大震災。この日の午前5時46分に突然襲った激震は観測史上初めての震度7を記録、兵庫、大阪、京都の1府2県で死者約5500人、約3万7000人の負傷者を出す大惨事となった。
水道、ガス、電気が第一次のライフラインとすれば、お金も第二次的なライフラインだ。銀行に人が殺到するパニックや不測の事件も予想されるが、果たして金融機関は対処できる状況なのか。私は四日前に通産省担当から日銀記者クラブに配属されたばかり。「本店で何を聞けばいいんだ」。そんな事を考えながら取材に走った。
震災ショック
震災による被害の規模も衝撃的であったが、平時に慢心していた日本の課題も一気に噴出した。高速道路やビルが倒壊し、世界の最先端といわれる日本の耐震設計技術が疑問視され、また火災の類焼を防げない都市計画の問題点も明らかになる。
とりわけ深刻だったのは、日本の政府の危機管理の能力不足だった。大震災から2、3日たち、瓦礫の神戸の街並み、途方に暮れ、避難された方々の状況が明らかになるにつれ、政府への批判が出始める。「自衛隊は何をやっているんだ」「援助物資が届かないのは、役所の対応に問題がある」。被害の拡大は一種の人災ではなかったのか、との空気が広がった。
現地の市や県の緊急時の連携が問題視されたのに続き、政府の情報収集システム、海外からの援助活動への対応の鈍さも次々と指摘された。首相官邸では村山富一首相に第一報が届いたのが地震後3時間あまりたった午前8時すぎだったことが明るみになると、首相個人への国民の不信感も一気に高まることとなる。
「そうじゃのう」が崩れた日
社会党の村山富一首相を担ぐ自民党、新党さきがけの自社さ連立政権が発足したのは震災の7ヶ月前の94年6月末のことだ。自民党は細川連立政権の誕生で野党に転じて以来、離党者が相次ぐなど自滅寸前。羽田孜内閣の連立与党だった社会党が連立から離脱したのを受け、なりふり構わずウルトラCで社会党の村山委員長を担ぎ出した。
政策の合意もなく、主義主張が異なる自民と社民の連立だけに、当初は半年も持たないと見られていたが、それまでは予想に反して無難に政権を運営していた。
眉毛がトレードマークの村山首相が持つ好好爺の雰囲気が「安心できる老宰相」のイメージを与えたこともあっただろう。殿様と呼ばれた細川護煕首相が政権を投げ出し、連立政権の分裂による羽田内閣が崩壊。強引に映る「小沢政局」に代表される政治の混乱に国民が疲れていた面もあったと思う。
首相に就任した94年6月29日、村山氏は各政党に挨拶回りしたのだが、かつての仇敵だった自民党代議士会では「こういうところでの初めて挨拶するので、心臓のときめきを感じます。人間社会の中で、お互いの真心は必ず通じるものです」と語り、喝采を浴びた。首相になるなど毛頭考えていなかった人物の素直な言葉。70歳を過ぎた老人が「心臓のときめき」と語る姿を、ほほえましく感じたことを覚えている。
首相になるまで外遊経験は四回しかないため、当初は心配された外交もこなした。私が通産記者クラブに詰めていた頃、村山内閣で通産相を務めた橋本龍太郎氏からこんな話を聞いたことがある。就任直後のイタリア・ナポリで開かれたサミット(先進七カ国首脳会議)でのクリントン米大統領との首脳会談でのことだ。
「首脳会談は事務方が設定した15分間の予定だったのに30分過ぎても首相が戻らないから、俺も心配になって見にいったんだよ。そしたら驚くほど雰囲気がいい。首相はクリントン大統領に自分の生い立ちを話していてね。漁師の息子に生まれ、苦学したこと、二度と戦争は起こしたくないと思って社会党に入党したこと。そして『アメリカに感謝したいことがあります。戦後の日本の労働運動はアメリカを見習ってやってきました』と言ったんだよ」
「この姿勢は効いた。クリントンも父親と幼い頃に別れて苦労した。しかも彼は民主党で、本来はユニオン(労働組合)と近いだろ。だから首相の一言に彼も感激してね。そして首相は『村山政権は55年体制を収斂させて出来た政権です。もはやイデオロギーの対立の時代でありません。多数党の自民党が少数党の私をかついでいるのが、その証拠ですからご安心ください』とね。大統領は親の話を聞く息子のように耳をかたむけていた。予想外の光景だったから、俺の出る幕はなかったよ」
二人だけの首脳会談に心配して駆けつけるあたり、政策通として「お目付け役」を任じていた橋龍(ハシリュウ)らしい解説だが、その後も村山首相は社会党の左派出身とは思えない柔軟さを見せる。日米安保条約について「堅持する」と表明し、あっさりと「日の丸・君が代」も容認した。土井たか子党首が「駄目のものは駄目」と言っていた消費税についても、97年4月からの税率の引き上げも決める。95年度の予算編成も前年94年12月25日に政府案決定するなど順調に進んだ。
その村山首相が阪神淡路大震災が起きてからは、急速に気力を萎えさせてゆく。周囲に「辞めたい」と語るようになる。
「震災のショックが大きすぎて、二人きりになると辞めたいという。『首相の資格がない、限界だ』というのを、なだめすかして、何とか続けさせた1年(95年)だった」(田中秀征氏、「総理の座」田原総一郎著より)。
もとより、本人が首相になると覚悟と準備をし、その座についた訳でない。連立の共通項といえば「アンチ小沢一郎だけ」という内閣だ。リーダーとして座りが良いと担がれただけに、いざ危機となれば脆いのは当然だった。
大震災から二ヵ月後の3月20日朝。狂信集団、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」が起きる。今度は首都・東京に激震が走った。その10日後の3月30日には、捜査の責任者である警察庁の国松孝次長官が自宅前で何者かに狙撃された。ごく普通の家庭に育ち、医師や有名大学を卒業した「成績の良い隣人」が信者となっているオウム真理教の組織もショッキングだった。旧ソ連からの武器購入を企て、○○大臣などと擬似政府のような地下組織で革命を本気で目指していたという事実は、世界各国で大きく報道された。日本の治安は世界トップとの安全神話が音を立てて崩れていった。
相次ぐ異常事態の発生に「そうじゃのう」が口癖の村山首相が「心身ともボロボロになっていった」(同)というのは容易に想像できる。「辞めたい」と言い続ける人物を「権力維持装置」として無理やり地位にとどめる自民党。結局、村山首相が退陣を表明するのは1年後の96年1月まで延びる。主のいない首相官邸の「空白」は、21世紀となった今も続くことになる。
昭和金融恐慌の影
話を首相官邸から金融に戻す。
「昭和金融恐慌と似てきたぞ。当時の状況を勉強しとけや」。社会部出身で「現場が第一」のHキャップが、私たち若手に珍しく勉強を指示したのは、震災後まもなくの頃だった。
ここで昭和金融恐慌を簡単に振り返ってみよう。阪神淡路大震災の72年前の1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が首都・東京を襲った。被害額は当事の日本のGDP(国内総生産)の3分の1にのぼり、日本経済はマヒ状態に陥る。
政府は1週間後の1923年9月7日、取り付け騒ぎを防ぐため、モラトリアム(支払猶予)を実施。さらに震災によって被害を受けた商工業者を救うため、商工業者が債務者となっている手形を日本銀行が引き受ける「震災手形割引損失補償令」を出す。この勅令は、銀行が持っている手形を日銀が再割引し、その損失を政府・日銀が穴埋めするもので、それ自体は震災の復興資金を手当てするために必要なものだった。しかし、この救済策が空前の金融恐慌の導火線となってしまう。
問題だったのは震災手形の採用により、本当は震災前に経営が行き詰まっていた会社や銀行の延命手段として悪用され、倒産が先延されてしまったことにある。震災後の混乱のなかで、不良貸出も雪だるま式に膨らんでいった。政治を使った企業支援との批判も高まり、党利党略も絡んで国会は紛糾する。
ついに1927年(昭和2年)3月14日、国会審議での失言をきっかけに金融恐慌は勃発する。同日午後3時ごろ、当時の片岡蔵相が衆院予算委員会で「今日正午ごろ渡辺銀行がとうとう破綻してしまいました」と口走ってしまったのだ。実際には当日の渡辺銀行は正常に営業していた。しかし、国会での発言を受け、渡辺銀行と子会社、あかぢ貯蓄銀行が取り付けにあって廃業に追い込まれた。
「うちの銀行も危ないのではないか」との不安心理は一気に広がった。震災手形を持っているとみられていた中小の銀行が相次いで取り付けにあい休業。大手の一角を占めていた台湾銀行が破綻するに及び、取り付け騒ぎは全国に広がった。紙幣の印刷が間に合わなくなる事態も起きた。窓口に押し寄せる預金者を安心させるため、片面が白紙のお札を窓口に積んでいた銀行もあったという。
2ヶ月で休業した銀行は32行。その後、政府は急ピッチで銀行の合併を進める。しかし、「虎の子」の預金を失った庶民の傷痕は深く、その後も日本経済の低迷が続くことになった。騒然とした空気のなか、都市も地方も人々も生活は苦しくなっていった。軍部による政治介入が強まり、日本は第二次世界大戦に突入してゆく。
経済の「血液」を取材する日銀クラブ
金融の話は経済ニュースのなかでも専門的とみられがちで、私たちの日々の生活とは何となく縁の遠い話とされる。
工場や製品のように実物経済の形で目に見えるならともかく、お金の取引は見えない。ルノーが日産自動車を事実上買収する、とか、消費税率が3%から5%になります、という話は注目を集めても、「不良債権の処理」や「金融システム不安」、「短期金融市場」という言葉がでると、別の世界の話と受け止めがちだ。その後の日本経済を揺るがし続ける銀行の不良債権問題も、95年1月当時は金融関係者が話す業界の話題だった。
そうした当時の読者ニーズとは関係なく、日経の経済部にとって金融記者クラブは「花形」、若手にとっては「登竜門」とされていた。総勢70名の経済部記者のうち日銀・神田分室に詰める金融担当は20名と最大。税金や予算を取材する大蔵省クラブ(通称・財研)が7名、日米貿易摩擦が話題だった通産省が6名なのと比べるとダントツに多い。
当の私は気が重かった。「不良債権問題を取材してもらう」と言い渡されていたからだ。経済記者のくせに金利や決算分析といった数字が大の苦手。入社して6年間、機械や化学メーカーといった製造業や総合商社といった産業取材が長く、工場など産業の現場取材が性に合っていた。直前に担当した通産省の取材でも個別の産業がテーマとなる通商摩擦やエネルギー政策に特化し、いわゆる金融マクロ経済の取材は避けながら、取材活動を楽しんでいた。
「人の稼いだお金で儲けている銀行自体が気に入らない。ベニスの商人のシャイロックと同じで、元来、金融業は人の足元を見るネクラ産業」というのが金融業へのイメージだった。また、「日本経済の根源はモノづくりにある。バブルで失敗した不動産屋や銀行が損をするのは自業自得であり、むしろ望ましい話。全体には関係ない」と考えていた私にとって、不良債権の取材は最も興味の沸かない取材テーマだった。「日銀を担当して一人前。ここで記者としての評価が決まる」とデスクに脅されながら、気合を入れ直していた。
一見は地味な部門がどうして花形なのか。理由は「金融=お金の融通=の仕組み」は家庭や企業の経済を動かす心臓であり、血液であり、経済社会のライフライン(生命線)を担っているからだ。いくら手足の筋肉や骨(製造業の現場)を鍛えても、血液が回らなければ死んでしまう。
では、なぜ金融が「ライフライン」なのか何か。少し教科書的で恐縮だが解説してみよう。金融は苦手という方(95年1月当時の私のような方)は興味があればお読みいただきたい。
「ギャートルズ」には戻れない
もしも、金融のない世界になったら、私たちの生活はどう変わるのだろうか。私が子供の頃に流行った漫画で「はじめ人間ギャートルズ」というテレビアニメがあった。原始人たちの物語で、彼らは大きな石で作った「通貨」を持っていって物を売買していた。しかし、遠く離れた地域での売買はどうだろうか。重たい石を運んでも、途中で盗難に会うかもしれない。そもそも、別の村では「石のお金」ではなく、「毛皮」が通貨として認められているかもしれない。
現代社会では現地に行かなくても銀行振込や手形で売買や取引ができる。日ごろ使うクレジットカードのほか、最近はインターネットバンキングも登場し、携帯電話やパソコンで買い物ができるようになった。金融の発達により私たちの経済活動できる舞台は格段に広がったのだ。
もう一つ金融には大きな役割がある。「信用創造」と呼ばれる機能だ。住宅や車を買いたいと思っても、手元に資金ないことも多い。大抵の場合は銀行からお金を借りて物を手に入れる。企業が工場や販売店を作るときも同じだ。銀行は今すぐお金を使わない人々から預金を集め、必要とする人や企業に貸し出す。住宅の場合、住宅の注文が増えそうだと考えれば、住宅メーカーは将来を見込んで設備を整える。この場合も手持ち資金がなければ、金融機関から融資を受ける。
経済活動の動きは、こうして金融の仲介が連鎖しながら広がってゆく。次々と経済の規模が拡大することを、経済学の教科書では「信用創造」と名付けている。
この信用創造を通じて、先人たちの世代は自給自足から抜け出し、各人が得意技を発揮できるような社会をつくり、生活を豊かにしてきた。いまや自給自足の世の中で生活できないのと同じように、金融のない「ギャートルズ」の世界には戻れない。
なぜ「紙切れ」が信用されるのか
私たちが普段使っている一万円札や千円札は、正式には日本銀行券と呼ぶ。東京・日本橋にある日本銀行が発行しているからだ。印刷は大蔵省造幣局が受け持っている。昔は、お札は「金」と交換することができたが、今は交換できない。使っている私たちが、「この紙切れには一万円に相当する価値のある実物やサービスと交換できる」と信用しているにすぎない。
子供の頃、母親に「肩もみ券」をプレゼントしたり、牛乳便のフタやメンコで掃除当番を交換した経験があると思う。仲間の誰かが「肩もみ券」やフタがサービスと交換できると信用して手に入れ、さらに「肩もみ」以外のサービス交換にも使われる場合も出てくるかもしれない。こうして幅広く流通したものが「通貨」となる。
銀行に預けたり、お金を借りる時に金利がつく。金利は通貨の「値段」である。今のお金と将来のお金を交換する場合の「値段」が金利という形で現れるからだ。世の中に出回っている「お金」の量が一定だとする。みんなが買い物をしたり、企業が工場を建てようとすると「お金」が必要になる。需要があれば値段は上がるのと同じように金利も上昇する。逆に誰もお金を使わないと値段=金利=も下がる。
日本銀行はお札を発行すると同時に、都市銀行や地方銀行など民間の金融機関へのお金を貸す「銀行の銀行」としての役割を持っている。民間銀行に貸すお金の量や銀行への金利(公定歩合)を動かすことで通貨の量(マネーサプライ)を調節し、お札の価値が乱高下しないようにしている。各国の中央銀行が「通貨の番人」と呼ばれるのは、こうした機能を担っているからだ。
国が発行する通貨の単位は日本が「円」、アメリカは「ドル」だが、お金の流れは世界を駆け巡る。海外との貿易や投資には相手国の通貨が必要となるためだ。その国の通貨の価値は、国の信用度合いや需給に応じて変わる。
海外の通貨と日本円を交換する相場を決めるのが外国為替市場。ドルと円の交換で、取引への参加者が円を持ちたい=日本の国が強いと=思えば、「円」の価値が上昇する円高ドル安となり、弱いと思えば円安ドル高となる。実際には為替レート動きは金利や株価など色々な要因が組み合わされており、それぞれが連動し互いに影響を与えている。ただ、基本的な動き方のルールは以上のようなものだと考えていい。
インフレは戦争の母
金融が成り立つためには「お札には価値があり、流通しているのだ」という信用・信頼が何よりも大切となる。昔からある銀行の建物が立派なのは「信用できますよ」と対外的に宣伝するためだ。金融は、政府、日本銀行、民間の金融機関、個人、企業、海外といった無数の信用の鎖で成り立っており、この仕組み、ネットワークが広がれば「金融システム」となる。
余談だけど、日銀券(お札)を発行している日本銀行・本店の地下にある金庫には大量の金の延棒や外国証券、国債が保管されている「らしい」。「らしい」というのは、私は実際に現物を見たことがない。金に交換できなくなったとはいえ、お札の発行に合わせた「資産」を日銀は持つ必要がある。かつては一部のマスコミには見学させていたようだが、不心得者の某記者が週刊誌に「潜入、これが日銀の金庫だ」とご丁寧に見取り図入りの原稿を掲載して以来、マスコミご法度となってしまった。
警備上の理由から、日銀本店の地下には地下鉄の線路も建設されていない。ちなみにブルース・ウィルス主演の映画「ダイハード3」でテロリストが地下鉄事故を装って襲撃したのはニューヨーク連銀(米国の中央銀行)の金庫。日銀関係者は「あれは映画の話。日本、米国とも中央銀行への強盗は不可能」と胸を張っている。仮にあったとしたら、それこそ信用問題。金の延棒とは一生縁がないと思うだけに、本物を一度は見学してみたかったような気がする。
本論に戻る。
インフレーションとは経済は加熱し、必要以上に物価が上がったり、金利が上昇する状況ことをいう。さらに国の経済が信用を失い、通貨の価値が一気に下がる=物の値段は上昇=場合はハイパー(超)・インフレーションだ。ソ連崩壊した直後のロシアのように、半年前は1万円で買えた物が今は2万円という事態だ。終戦直後の日本も同じだった。経済は混乱し、米と着物の交換といった物々交換の世界に逆戻りし、経済規模は縮小して街には失業者が溢れる。
ハイパーインフレは経済の混乱だけにとどまらない。時には戦争の引き金となる。
代表例は第一次世界大戦後のドイツ。第一次大戦で敗れて巨額の補償問題で苦しみパイパーインフレに直面したドイツの社会は大混乱し、ヒットラー率いるナチス党独裁政権を誕生させた。戦前の日本の軍部による独走の背景にも、昭和金融恐慌後のインフレがある。大混乱に陥った社会の不満を沈め、経済を立て直すには、他国を侵略して「市場」を手に入れるのが最も手っ取り早い。「ご破算に願いましては・・・」ではないが、社会の「リセット」ボタンが戦争だった。
希望を失うとデフレに
インフレが問題なのと同じように逆の現象であるデフレーションも性質が悪い。デフレは物が売れずに物価が下がり、金利を下げてもお金を使わなくなる状況のことだ。
政府は2001年3月に発表した例経済報告で、現在の日本の状況について「緩やかなデフレ傾向にある」と公式に認めた。物が売れずに物価が下がれば企業の経営が悪化し賃金も下がる。個人の収入が減り、よけい物を買わなくなる。こうして経済活動がらせん階段を降りるように停滞する悪循環(デフレ・スパイラル)に陥る。心臓が弱くなり、血圧が低下しているわけで、重病人である。
インフレもデフレも根本の原因となるのは「信用の破綻」である。通貨への信用がなくなればインフレ、将来への希望を失えばデフレとなる。繰り返すが、キーワードは「信用と希望」だ。そう考えると、これまでの金融の抱えてきた課題は、そのまま日本全体の課題とオーバーラップする。
長く続いている低迷から日本社会が抜け出すため、求められているのもは、将来世代への借金である国債の発行による景気対策ではない。政治、行政といった「公」への「信用」であり、未来への希望や夢の持てる社会に創り直すことではないだろうか。そして信用と希望を取り戻すため是非とも必要なのが、ひとり一人の個人が能力を生かす社会であり、公への参加を促す制度の再構築であろう。
滞留するマグマ
1995年2月、阪神淡路大震災の被災地では復興に向けて懸命の努力が進められていた。関東大震災後のような暴動もなく、被災者の方々が不慣れな避難所での生活で助け合いながら耐える姿は多くの人の心を打った。全国各地から若者のボランティアが続々と集まり、若者を「無関心世代」と見てきた世間を驚かせた。
こうした震災復興への取り組みとは裏腹に、金融にはマグマが滞留してゆく。一月には住友銀行が九五年三月期決算でノンバンク向け不良債権の処理を理由に戦後初の赤字決算となることを発表。前年の九月に同行の取締役名古屋支店長が何者かに殺害される事件を受けての経営判断だっただけに、不良債権の闇の深さと規模の大きさを予感させた。
第一波となったのは、前年の暮れに破綻した東京都内の信用組合、東京協和信組と安全信組の二信組の処理問題だった。
「悪魔の錬金術師」とされたEIEグループの総帥、高橋治則氏が経営してきた小さな信組の破たん処理問題である。この2信組の処理の過程で、政治、官僚を巻き込んだ汚職事件やスキャンダルが明るみに出た。
さらにニ信組の処理方法は、その後も繰り返される「奉加帳方式」という護送船団型の不良債権処理のモデルとなり、「先送りの連鎖」と「行政の破たん」につながってゆく。二信組事件は、メインバンクだった日本長期信用銀行の経営不振にも発展、3年後に長銀は経営破たんに追い込まれる。
政治の舞台では、永田町を飛び越して地方政治から揺れが始まった。三月の東京都知事選挙で青島幸雄氏、大阪府知事選挙では横山ノック氏が自民党系候補を破って当選。無党派となった静かな大衆(サイレント・マジョリティ)の力を見せつける。
近鉄バッファローズの野茂英雄投手が日本プロ野球に見切りをつけて単身渡米し、メジャーリーグのドジャーズへ移籍したのもこの頃だ。実力本位のスポーツの世界では、日本のムラ社会からの脱出が先行して起きた。
直接の当事者である金融機関、借り手企業、大蔵省・日銀といった政策当局者、そして政治家、取材するマスコミ。誰もが日本経済に滞留するマグマの深さを把握しきれなかった。「土地の値段も今が底。ここが我慢のし所だ」。95年当時、こう語る銀行経営者の言葉の裏には、つい4、5年前まで「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と世界各国にもてはやされ、世界金融のトップを走っていた自負もあっただろう。
第二次世界大戦の日本軍と同じように、誰もが過去の成功体験に縛られ、現実を直視することを避けた。そして97年秋、膨張を続けたマグマは一気に噴出、日本は10年間を失うことになる。
(続く)