2001年9月19日
近藤 洋介
日本は当事者
「われわれはみな米国人」――。普段は米国に冷ややかな論調が売り物のフランスのル・モンド紙に大見出しが踊った。イギリスのブレア首相も「自由への挑戦」と断じ、国民に団結のメッセージを伝えた。ロシア、中国、サウジアラビア・・・。米国の中枢を狙ったテロ攻撃を受け、世界各国による包囲網が築かれようとしている。
5000人を越える人々の命を奪ったテロリズムは許されない。いまだに行方不明の邦人の方々がいる。しかし、ワイドショーのTV番組で繰り返し映像が流れ、芸能リポーターも動員した取材が始まると、ともすれば「映画のような・・」といったバーチャルな印象が強まってゆく。日本、そして私たち日本人はテロ攻撃を受けた「当事者」なのだ、ということを改めて肝に銘じるべきだ。
当事者である以上、暴挙を起こしたテロリストを許さない毅然とした態度を示すべきだ。「小泉政権への浮揚力につなげたい」、一方で「足を引っ張る」といった党利党略は言語道断。この際は与党も野党も関係ない。同時に、姿の見えない相手に対し、当事者がゆえに冷静な、かつ、その場しのぎでない対応が求められる。
「報復」ではなく、「予防」を
日本は、米国や世界各国と連携し、断固としてテロとは戦わなくてはいけない。もう一つのライフラインである金融では、米国、欧州、そして日本の通貨当局が利下げを始めとする手立てをすばやく実施。金融恐慌の発生を防いだ。マーケットへの予断は許さないが、次は実際の犯人への責任追及が本格化する。
しかし、彼らが「聖戦」と狂信した結果の暴挙に対して、「報復」であってはいけない。目的は「抑止」であり、予防のための行動であるべきだ。そのための軍事行動であったとしても、原因の究明と解決に向けた枠組みにつながる「予防攻撃」につながるような一歩とし、日本として中期的な枠組み作りに参加すべきだと考える。
そのために自衛隊法を改正する必要があるのなら、改正したら良い。しかし、構想力もなく、軍事行動への後方支援が先にあり、湾岸戦争の時に受けた屈辱から「何もなしでは済まない」という世間体だけで取り繕うための改正ならば、やらない方がよい。集団的自衛権の解釈論も、この場合は小手先の議論だ。「何のために」を話し合う国会審議を望みたい。
グローバル資本主義を制御するシステムを
私にはイスラム原理主義への知識はない。ただ、今回のテロをオウム真理教のような特別な宗教によるもの、と断定する気にはなれない。
世界のマネーセンターを狙った自爆テロは、急速に進んだグローバル経済、資本主義で生まれた一握りの「勝者」に対する大多数の「敗者」による反乱とも見えた。中央アジアや一部のアラブ、そしてアフリカ。テロの温床となっている場所は、グローバル経済における「敗者」である。容疑者のラディン氏が捕まっても、第二、第三の狂気の反乱が続く。
冷戦後の市場主義は「もてる物」と「持たざる物」、地域間の「光」と「影」の差を一気に広げてきた。私たちの生活に夢を与え、活力の源でもあるグローバル経済だが、その行き過ぎを制御し、「敗者」に手当てするシステムは見つかっていない。今や日本も「影」の部分が大きくなっているのではないだろうか。
資源のない日本は、国内で加工した品物を輸出して外貨を稼がなくては国が成り立たない。100年前ならいざ知らず、1億2千万が食べいけないのだ。原油はおろか、食料自給率も50%を割り込んでいる。その気になれば100%の自給が可能な米国と違い、世界の安定のうえに私たちの生活、そして未来が成り立っている。
国の成り立ちが違う米国に後追いするだけでは、新しい経済システムは望めない。私たちの先輩世代は戦後、バブル崩壊の直前までは「世界の奇跡」と呼ばれた経済社会システムを築き上げた。「世界で最も成功した社会主義」とも言われ、米国流の市場至上主義とは似て非なるシステムだった。その仕組みが今やカベにぶつかり、修正に向けた産みの苦しみが続いている。
無駄な規制は取り払うべきだし、高コストの行政サービスへの大手術も待ったなしだ。しかし、荒れ狂う市場の猛威を制御する知恵も、それと同じように求められている。少なくとも経済の分野で、日本は新しい提案、枠組みをつくる能力と責任があるのではないだろうか。
市場原理主義でもなく、かつ、引きこもり社会でもない「第三の道」。21世紀版の戦争は、新しい課題を突きつけている。